炭を起こしています
シャフトを通しています。
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タバコがオスマン帝国に到達するまでにかかった時間は1世紀半に満たない。1520年代にカリブ海で始まった道のりは、1700年には帝国自身がタバコを栽培するところまで進んでいた。
タバコの原産地は新大陸である。カリブ海におけるスペインの征服の過程で、ヨーロッパの船乗りたちは現地の人々が喫煙する様子を目にし、その習慣を取り入れた。年代記作家バルトロメ・デ・ラス・カサスは、クリストファー・コロンブスがキューバ内陸に送った偵察隊が、乾燥させた葉を巻いたもの——「tabacos」——を吸う島民に出会ったと記している。島に住むスペイン人たちも、この習慣を現地の人々から取り入れた。
当初タバコは嗜好品としてではなく、風邪からペストまでを治す万能薬として扱われ、その後になってようやく嗜好品としての喫煙へと移行した。この指摘は、オスマン帝国におけるタバコを扱ったジェームズ・グレハンの査読済み研究によるもので、薬から習慣へという同じ道筋は、後に中東でも繰り返されることになる。
スペイン人がヨーロッパの他地域にタバコを紹介したのはおよそ1528年のことで、その後の交易の広がりは当時の通信速度を考えると驚くほど速かった。1533年までには、クリストファー・コロンブスの息子ディエゴ・コロンが、遺言の中でリスボンのタバコ商人について言及している。
「ニコチン」という言葉の由来にとって重要なのは1559年である。リスボン駐在のフランス大使ジャン・ニコは、フランス王フランソワ2世とその母カトリーヌ・ド・メディシスに宛てて、嗅ぎタバコとして使うようにとの指示とともにタバコの標本をパリへ送った。彼の名前から植物学名Nicotianaが生まれ、1570年までに定着し、そこから「ニコチン」という語も生まれた。
ヨーロッパ大陸内では、タバコは特定の経路を通じて広まった。イベリア半島は「縄」状に巻いた乾燥葉をかごに詰め、オランダや南ドイツへと輸出した。スペイン語で「かご」を意味するcanastroから俗語のcanasterが生まれ、それがドイツ語のKnasterに影響を与えた。16世紀末までにタバコはイングランド、オランダ、スペインで一般的な嗜好品となり、その後数十年でヨーロッパの他地域にも広がっていった。
イングランドの事例は特殊で、そこでは喫煙が当初から国家政策の問題でもあった。ウォルター・ローリーはバージニア産タバコを流通させ、ジョン・ホーキンズは葉ではなくタバコの種子そのものを初めてイングランドに持ち込んだ。ウィリアム・ハリソンの年代記には、1573年の時点ですでに同国での喫煙について記されている。
1604年、国王ジェームズ1世は『A Counter-Blaste to Tobacco』という小冊子を発表し、同年、輸入タバコの関税を1ポンドあたり2ペンスから6シリング10ペンスへと、実に40倍に引き上げた。それでも需要は落ちなかった。1624年、ジェームズ1世はさらに踏み込み、バージニア産に限定した王室によるタバコ輸入独占制度を導入した。国家は新しい商品を、害についての論争の対象としてだけでなく、国庫の収入源としても見なしたのである。
ここでは出典が食い違っており、その食い違いをはっきり示す価値がある。アシン・ダス・グプタ、B・G・ゴーカレー、イルファン・ハビーブ、フェルナン・ブローデル、V・G・キーナン、ベルトルト・ラウファーらの研究に基づくグレハンの査読済み研究によれば、最初のタバコの葉は16世紀半ばまでに南アジアに到達し、中国と日本に植物が到達したのは17世紀の最初の数十年になってからだという。1700年までにタバコはアジアのほぼ全域で重要な商品作物となり、その時点でアジアは自前の供給を栽培するようになっていた。
別の出典は日本について異なる年代——1542年、ポルトガル人船員が日本人にタバコを紹介した年——を挙げている。60〜70年という開きは、単なる誤差として片付けるには大きすぎる。考えられる説明としては、1542年は最初の単発的な接触の出来事であり、グレハンの言う「17世紀最初の数十年」は喫煙習慣が大規模に広まった時期の推定である、というものだが、出典自体はこの区別を直接説明してはおらず、どちらか一方を最終的な答えとして扱うのは不正確だろう。
タバコが帝国に初めて到達したのは16世紀末で、スペイン人によってもたらされた。ヨーロッパと同様、そこでも喫煙用パイプからではなく医療から始まった。タバコはたちまち医師たちの注目を集め、さまざまな疾患に広く処方される薬となり、16世紀末の数年にはすでに中東の医学書に登場していた。
この植物についての知識が地域に伝わった経路として最も可能性が高いのは、ヨーロッパ人と接触があった、あるいは彼らの著作を翻訳できた非ムスリムたちである。地中海世界に共通し、古代から受け継がれた体液理論(ヒューモア医学)が、この考えの伝播を後押しした。オスマン帝国の医師たちはタバコの葉から咬傷や火傷用の湿布を作り、タバコの汁を毒への解毒剤として用いた——このことはイブラヒム・ペチェヴィの年代記『タリーヒ・ペチェヴィ』や、アブドゥルガニー・ナーブルスィーの著作に記録されている。
薬から嗜好品としての喫煙への移行にかかった時間は驚くほど短かった。パレスチナの学者マアリー・ビン・ユースフ・アル=カルミーは、すでに17世紀最初の数十年のうちに、「市場や通りといった人が集まる場所」でタバコが公然と喫煙されていたと記している。最初の喫煙者の多くは都市住民で、大西洋を越えてくる高価な輸入品を買う余裕があったのは彼らだけだった。同じ時代・同じ地域が、後にシーシャ文化を生み出すことになる——詳しくは「シーシャの歴史」を参照。喫煙用のタバコ自体がどう変化していったかについては「トンバクからモアッセルへ:シーシャ用タバコの変遷」を、喫煙の広がりに対する国家の対応については「喫煙禁止の歴史:ムラト4世から現代の法律まで」を参照されたい。
スペイン→カリブ海→ヨーロッパ→オスマン帝国というルートは、他のどのルートよりも多くの史料に裏付けられているが、当時の人々に知られていた唯一のルートというわけではなかった。17世紀の著者たちは、西アフリカが少なくとも地中海南岸沿いにおいてタバコ伝播の第二の、独立した供給源だった可能性を示唆している。この仮説は、イブラヒム・アル=ラカーニーの著作『ナシーハ・アル=イフワーン』(没年1631/1632年)に言及されている。
この説を裏付けるのは文献だけではなく、考古学的証拠もある。17世紀のパレスチナの喫煙用パイプは、西アフリカ様式との明らかな類似性を示しており、これは研究者ウジ・バラムがパレスチナの物質文化に関する研究の中で示したものだ。この説が正しければ、この地域におけるタバコの伝播は単一の経路ではなかったことになる。ヨーロッパ経由の経路と並んで、独立したアフリカ経由の経路が存在していた可能性がある。
オランダ東インド会社(VOC)は1623年、シャー・アッバース1世との有利な通商条約締結とバンダレ・アッバースおよびイスファハーンでの商館開設を経て、イランおよびペルシア湾での通商活動を開始した。17世紀を通じて18世紀初頭に至るまで、VOCはイランにとって最も重要な外国貿易相手であり続けた。
ここで、分かっていることの限界について断っておく必要がある。VOCがこの地域に存在し、イランにとって最大の貿易相手国という地位にあったことは十分に裏付けられている。しかし、その貿易のうちタバコが実際にどれほどの割合を占めていたかは、今回集めた資料からは判断できない。この主題を専門的に扱った学術論文は存在するが(『Tobacco, Eurasian Trade, and the Early Modern Iranian Economy』、Iranian Studies誌、2015年)、本稿執筆にあたってその内容を確認することはできなかった。論文のタイトルだけをもとに「東インド会社とタバコ貿易」という結びつきを組み立てるより、この問いを未解決のまま示すほうが誠実だろう。
1700年までにオスマン市場は自国産タバコの大部分をまかなうようになっていた。マケドニア、アナトリア、北シリアで栽培され、それに加えて、この土地でも定着していたイラン産の高く評価された輸入品が補っていた。16世紀末の医学書における最初の言及から、帝国自身の農園に至るまでにかかった期間は1世紀とわずかで、当時の通信速度を考えれば驚くほど速いペースだったといえる。
自給自足化は価格にも表れた。17世紀末以降、東地中海地域でタバコは着実に値下がりし続けた。同じ時期にエジプトとシリアの小麦価格がおよそ2倍に上昇していたのとは対照的である。17世紀末までにタバコはすでに重量あたりでコーヒーより安くなり、1800年までにはその差がおよそ3倍にまで広がった。コーヒーではなく喫煙こそが、オスマン帝国の住民にとって最も手頃な娯楽の座を急速に手にしたのである。今日のタバコ栽培の地理については「シーシャタバコはどこで作られている?生産地の地理」を参照されたい。
カイロでは、17世紀半ばまでに最初のタバコ商人組合が成立し、1798〜1801年のフランス遠征隊は、市内でさらに2つの同様の組合、加えて喫煙用パイプを製造する5つの組合を数え上げている。
タバコが初めてヨーロッパに到達したのはいつか?
スペイン人がヨーロッパにタバコを紹介したのはおよそ1528年。1533年までにはリスボンですでにタバコ商人が営業しており、ディエゴ・コロンの遺言にその名が記されている。
タバコが日本に到達したのはいつか?
出典によって食い違いがある。一方は1542年とポルトガル人船員を挙げ、もう一方は中国と日本を合わせた大まかな推定として17世紀最初の数十年を挙げている。どちらがより正確かについて、出典は直接示していない。
タバコはどのようにオスマン帝国に到達したのか?
16世紀末にスペイン人がもたらした。当初は体液理論(ヒューモア医学)の枠組みの中で薬として使われ、17世紀最初の数十年にはすでに市場や通りで公然と喫煙されるようになっていた。
タバコが地中海に到達したのはヨーロッパ経由だけというのは本当か?
必ずしもそうとは限らない。17世紀の著者たちの記述とパレスチナの喫煙用パイプの考古学的証拠は、地中海南岸沿いに西アフリカを経由したという、あまり知られていない第二のルートの存在を示唆している。
オスマン帝国が輸入タバコへの依存を脱したのはいつか?
1700年までに。マケドニア、アナトリア、北シリアですでに栽培されており、イランからの輸入がそれを補い、その時点でタバコの価格は着実に下がり続けていた。
このテーマは「シーシャの歴史」「トンバクからモアッセルへ」「喫煙禁止の歴史:ムラト4世から現代の法律まで」「シーシャタバコはどこで作られている?生産地の地理」といった記事へと続いていく。